LOGIN「どんな人だと思っていらしたのです?」
私が尋ねると、リチャードは少しためらってから言った。
「優しくて、思慮深くて、事情を汲んでくれる人だと」
私は思わず、かすかに笑ってしまった。
「それは、あなたにとって都合のよい人、ということではなくて?」
「イブリン」 「病弱な従妹に思いやりがない、とおっしゃりたいのでしょうけれど」そこまで言ってから、私ははっきりと言った。
「リチャード、いえ婚約者様、それ、私に何の関係がございますの?」
空気が止まった気がした。
窓の外で木々が揺れている音が、急に遠く聞こえる。 リチャードは、私の言葉をすぐには飲み込めなかったらしい。間の抜けた顔で、まばたきをする。「……従妹だぞ?」
「ええ。あなたの、ですわね」 「家族みたいなものだ」 「でしたらなおのこと、あなた方の側で何とかすべきことですわ。私との約束を何度も壊して当然の理由にはなりません」ようやく彼の顔色が変わった。
責められているのだと、そこで初めて本格的に理解したのだろう。「……冷たいな」
その一言で、私は本当に呆れてしまった。
冷たい。 何度も待たされて、譲らされて、それでも表立って責めずにきた婚約者に向かって、まず出てくるのがその言葉なのか。「約束を違えた相手に向かって、それをおっしゃるのですね」
「君は大げさだ」 「大げさ?」自分で繰り返してみると、その言葉はあまりにも軽かった。
私は立ち上がった。 このまま座っていると、もう少し見苦しいことを口にしてしまいそうだったからだ。 泣きはしない。でも、腹の底に溜まっていたものまで、そのまま全部ぶつけてしまう気がした。「本日は、もうお帰りくださいませ」
「イブリン、待ってくれ。私はただ、分かってほしかっただけなんだ」 「ええ。分かりましたわ」私は自分でも驚くほどきれいな声で言った。
「私との約束は、あなたにとって、その程度なのだと」
「そうじゃない!」 「では、どう違うのです」リチャードは口を開いたまま、しばらく何も言えなかった。
その時だった。「それは、ぜひ私どもも伺いたいところだな」
応接間の扉が開いて、低い声がした。
振り向くと、そこにはハロルド兄様が立っていた。 その後ろにはジョン兄様もいる。 二人とも、いつから聞いていたのだろう。 ハロルド兄様の顔には普段の穏やかさがなく、ジョン兄様は珍しく笑っていなかった。 リチャードが目に見えて青ざめる。「ハロルド……いや、これは……」
「妹に向かって“冷たい”だの“大げさ”だの、ずいぶん好きに言ってくれたようだ」ハロルド兄様の声は静かだった。
静かなのに、そこに含まれているものは十分すぎるほど伝わった。 私はその瞬間、ようやく息を吐いた。 ずっとひとりで抱えていたものが、少しだけほどけた気がした。 軽くなったわけではない。痛みが消えたわけでもない。ただ、もう私ひとりが飲み込まなくてもいいのだと思えた。 ハロルド兄様が、こちらを見た。「イブリン、もういい。お前は部屋へ戻っていなさい」
「ですが」 「十分だ」その一言で、私は頷いた。
応接間を出る時、背中でリチャードの焦った声がしたけれど、私は振り返らなかった。 いまさら振り向いたところで、聞きたい言葉がそこにあるとは思えなかったからだ。 廊下へ出ると、昼の名残だった光はもうずいぶん薄くなっていた。 私はゆっくり歩きながら、指先でスカートの布をつまんだ。 気を抜くと、手が少し震えそうだった。 怒っているのか、悲しいのか、悔しいのか、自分でもまだうまく分からない。 ただひとつだけはっきりしているのは、私はさっき、とうとう口にしてしまったということだった。――私に何の関係がございますの?
あれは売り言葉でも、勢いでもなかった。
たぶん、ずっと前から胸の底に沈んでいた言葉だ。ようやく形になっただけなのだろう。 部屋へ戻ると、鏡の前に置いたままだった真珠の耳飾りが目に入った。 白く、丸く、きれいで、静かだった。 私はその片方を指先でつまみ上げて、しばらく眺めたあと、そっと小箱へ戻した。 今日の午後は、もう二度と戻らない。 でも、たぶん戻らなくていいものもある。 そんなことを考えた時、自分の中で何かが少しだけ、前とは違う場所へ動いた気がした。夫人はすぐに表情を整えた。「ただ、イブリンさんのように賢く、落ち着いたお嬢さんなら、今回のことも少しお時間を置けば、違った見え方になるのではないかと思いましたの」 その瞬間、自分の中で何かがすうっと冷えた。 賢い。落ち着いている。 違った見え方。 言い換えれば、今は感情的になっているだけで、そのうちこちらに合わせた考え方へ戻るだろう、と言っているのと同じだった。 私は顔を上げた。「違った見え方、とは?」 奥方は一拍おいてから答えた。「たとえば、婚約というものは、ふたりだけのものではありませんでしょう。家同士のお付き合いもありますし、身内に少々厄介な事情がある時には、互いに少しずつ譲り合っていくことも必要かと」 私はそれを聞きながら、唇の内側をそっと噛んだ。 厄介な事情。少々。譲り合い。 やっぱり全部、向こうに都合のよい言い換えだった。「譲り合い、ですか」 気づけば、そう口にしていた。「ええ」 「私ばかりが譲っていたように思いますけれど」 応接間が静かになった。 言い方はきつくなかったはずだ。 でも、その言葉は思っていた以上にはっきり響いたらしい。 夫人は一瞬だけ目を瞬かせ、それからかすかな笑みを戻した。「そう感じさせてしまったことは、残念に思いますわ」 その返しに、私は少しだけ目を伏せた。 ――感じさせてしまった。 そこでもまだ、事実ではなく受け取り方の話にされるのだ。「リチャードにも、今後はもっと気をつけるよう、私どもからもよく申します。ですから、どうか今回のことだけで」 「今回のことだけではございません」 自分でも驚くほど、きっぱり言えていた。
翌日の午前、お父様から「先方の奥方がいらっしゃる」と聞かされた時、私は思っていたより平気だった。 驚かなかった、というほうが近いかもしれない。 あの返書を読んだあとでは、向こうがこのまま引き下がるとは考えにくかったし、むしろ誰かが直接こちらへ来るほうが自然に思えた。 花で済ませようとして、書面でもまだ「少し時間を置けば」と言ってくるような人たちだ。 顔を合わせれば丸く収まると、きっとまだ思っているのだろう。 私は居間の窓辺で、手にしていた本を閉じた。 読んでいたつもりだったけれど、何が書いてあったのかはほとんど頭に入っていない。 外では薄曇りの空の下、庭師が剪定した枝をまとめていた。鋏の小さな音が、とぎれとぎれに聞こえてくる。「会ってみる?」 お母様がそうおっしゃったので、私は少しだけ考えた。 考えるまでもないことのようでもあったし、ここで逃げるのも違う気がした。「ええ」 私は答えた。「お会いします。けれど、二人きりでは嫌ですわ」 「もちろんよ」 お母様はすぐにそう言ってくださった。 その一言だけで、胸の内のこわばりが少しやわらぐ。 前なら、婚約者の母君がいらっしゃるのなら、無礼のないように、穏やかに、とまずそちらを考えただろう。 けれど今は違う。私はもう、向こうに都合のよい聞き分けのよさを見せるために座るのではないのだ。 お母様のほかに、キャサリン姉様も同席することになった。「あなた一人に受け答えをさせる気はないわ」 そう言いながら、姉様はこともなげに手袋の指先を整えていた。 その落ち着きが、ありがたい。 約束の刻限が近づくにつれ、不思議と気持ちは静まっていった。 怖くないわけではない。 ただ、昨日までの
私は膝の上に置いた手をそっと重ねた。 腹が立っているはずなのに、どこか冷めてもいた。 ここまで分かりやすく書かれると、むしろ迷う余地がなくなる。「見事ですこと」 お母様が言った。「こちらの娘が繰り返しないがしろにされたことは“若さ”で済ませて、まだ譲れとおっしゃるのね」 「しかも、理知的で思慮深いから我慢できるだろう、と」 ハロルド兄様の声には、もう隠そうともしていない苛立ちがあった。「結局そこなんだよな」 ジョン兄様が壁にもたれたまま言う。「イブリンなら飲み込むだろう、って最初から思ってる」 私はようやく口を開いた。「……先方は、本当に婚約解消になるとは思っていないのですね」 自分でも驚くほど、平板な声だった。 お父様が私を見る。「そうだろうな。少し宥めれば戻ると考えている」 「花でも届ければ済む、と」 私がそう言うと、キャサリン姉様が小さく頷いた。「ええ。そして、時間を置けばこちらの気持ちもなかったことにできる、と思っているのよ」 その言葉は、私の胸にすとんと落ちた。 まさしくその通りだった。 リチャード本人がそう思っているだけなら、まだ若さや鈍さのせいとも言えたかもしれない。 けれど、この返書を読む限り、それは家ぐるみの考えなのだ。 あの人が何も分かっていないのは、ひとりだけの浅さではない。「“従妹の身の上についても、いささか気の毒な事情”」 お母様がその箇所を繰り返す。「ずいぶん都合のいい書き方ですこと。詳しくは言わないけれど、こちらは察して大目に見なさい、というわけね」 「しかも、その事情をリチャード自身にどこまで知らせているかも怪しい」 お父様が便箋をたた
先方からの返書が届いたのは、その日の午後だった。 昼食を終えて、私は居間でキャサリン姉様と向かい合って座っていた。 姉様は刺繍枠を手にしていたけれど、針を動かすより私の顔を見ている時間のほうが長かったと思う。 私のほうも、本を開いてはいたものの、同じ行を何度も目で追っているばかりだった。 執事が入ってきた時、その表情を見ただけで分かった。「お父様からですか」 「はい、お嬢様。皆様、書斎へお集まりくださいとのことです」 姉様と私は目を合わせた。どちらからともなく立ち上がる。 廊下を歩きながら、私は妙に落ち着いていた。 返事が来ることは分かっていたし、その中身が素直な詫びだけで済まないことも、もう何となく分かっていたからだ。 書斎へ入ると、お父様は机の向こうではなく、窓際の長椅子の近くに立っていた。 お母様もいらして、ハロルド兄様とジョン兄様もすでに揃っている。皆の顔を見る限り、まだ手紙は読まれていないらしかった。 「来たよ」 お父様がそう言って、封筒を軽く持ち上げる。 上質な紙に、整った筆跡。 いかにも、失礼のない文面であろうことが見て取れた。「読んでしまいましょう、お父様」 キャサリン姉様が言うと、お父様は頷き、封を切った。 紙のこすれる音だけが、やけにはっきり聞こえた。 お父様はまず一度、黙って目を通した。 そのあと、口元だけがわずかに固くなる。「読んでくださいます?」 お母様が静かに促すと、お父様は便箋を持ち直した。「“先日は、若い者どうしの行き違いが思わぬかたちでご心痛をおかけしたこと、残念に存じます”」 私はそこで、早くも気持ちが冷えた。 ――ご心痛。 なるほど、そう来るのかと思う。約束
翌朝、私は思っていたほど眠れていなかった。 夜のあいだに何度か目が覚めて、そのたびに、もう婚約は終わるのだと確かめるみたいに天井を見つめた。 泣きはしなかったし、取り乱しもしなかったけれど、気持ちがすっかり軽くなったわけでもない。 ただ、不思議と迷いはなかった。 朝の支度を済ませて食堂へ下りると、お母様はいつも通り落ち着いていらしたし、お父様も普段と変わらぬ顔で新聞に目を通していた。 けれど、食卓の空気には昨夜の続きがちゃんと残っていた。「よく眠れた?」 お母様に聞かれて、私は少し考えてから答えた。「……それなりに」 「そう」 無理に慰めるようなことを言われないのが、ありがたかった。 朝食のあと、お父様はナプキンを置いて私を見た。「先方への書状は、もう出した」 私は背筋を伸ばした。「ありがとうございます」 「こちらの意思ははっきり書いた。これまでの度重なる不誠実な対応についても触れてある。曖昧に話を濁されてはかなわんからな」 その言葉を聞いた時、胸の中が少しだけ静かになった。 昨夜の決意が、もう家の中だけのものではなくなったのだと思えたからだ。「返事はすぐ来るかしら」 キャサリン姉様がバタつかせずに尋ねると、お父様は肩をすくめた。「どうかな。先方としては、そう簡単に飲み込みたくない話だろう」 たしかにそうだろう。 事業のつながりもあれば、世間体もある。 それに、何よりこれは向こうから望んできたご縁だった。 都合のいい婚約者として私を見ていたのだとしたら、なおさら手放したくはないはずだ。 そんなことを考えていた時だった。 食堂の外で、使用人の足音が止まる。 少しして、執事
(リチャード視点) エミリーの部屋を出た時、僕は思っていた以上に疲れていた。 イブリンの家では怒鳴られたわけではない。 怒鳴られたわけではない。 殴り合いになったわけでもない。 けれど、あの家の応接間で向けられた空気は、そういう分かりやすい荒れ方より、ずっと堪えた。 ハロルドの冷えた顔も、ジョンの露骨に不機嫌そうな目も、まだ頭の隅に残っている。 それより何より、イブリンの声が離れなかった。 ――婚約者様、それ、私に何の関係がございますの? あんなふうに言われるとは思わなかった。 屋敷へ入ると、母がまだ起きていた。 いつもの居間で、夜用の薄いショールを肩に掛け、書き物をしていたらしい。僕の顔を見るなり、羽根ペンを置く。「お帰りなさい。ずいぶん遅かったのね」 「イブリンのところへ寄ってきたんだ」 僕がそう言うと、母はすぐに事情を察したようだった。「ちゃんと説明したのね。それで?」 それで、と聞かれても、答えに少し詰まる。 ちゃんと説明したつもりだった。 エミリーが熱を出したことも、心細がっていたことも、その場を外せなかった理由も。こちらとしては誠意を見せたつもりだったのだ。 なのに、うまくいかなかった。「……思ったより、気を悪くしていたみたいだ」 「まあ」 母は驚いたというより、少し面倒そうな顔をした。「イブリン嬢が?」 「兄たちも出てきて、ひどく責められたよ。まるで僕がよほどのことをしたみたいに」 母はショールの端を整えながら、ふう、と息をついた。「今日はたまたま虫の居所が悪かったのかもしれないわね。約束が駄目になったのですもの、不機嫌にもなるでしょう」 その言い方に、僕は少しだけ気







